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 寝苦しい夜が続いている。間の悪いことにクーラーが壊れ、熱帯夜という言葉を直に感じる羽目になったからだ。 昼ほどではないにしろ、体は汗ばみ、べたつく。肌が布団に張り付く。布団は湿っていく。 そんな全てが気になり、一向に寝ることができないのだ。
 だからと言って、寝ずに何かをする気にもならない。ただ怠惰に目をつむっているばかりだ。 夏の夜長は、秋の夜長と違い、実用的なものではないのである。
 淡々と時間が過ぎていく。眼前にある暗闇を眺めているのは落ち着かないず、目を開きたい衝動に駆られる。 寝付こうとしているのに、起きようとしてしまうのはおかしなことである。そして、すべきなのは一つだけ、迷う必要などない。 しかし、自分の意志とは裏腹に、まぶたを持ち上げてしまう。
 真っ先に見えたのが、かぶっていた帽子なのか、右手に持っていたステッキなのか。 それとも、それ以外のものだったのかは分からない。少なくとも、僕の目線の先には、老紳士が浮いていた。
 ただ、どう考えてもそんなことがあるはずもない。 だからそれは蜃気楼か何かが、この暑さのせいで現れただけだと思うことにした。
「あの、お尋ねしたいことがあるのですが」
 その矢先に、蜃気楼に話しかけられた僕は慌てた。さすがに蜃気楼は喋らないだろう。 とすれば、これは何なのか。……考えるまでもなく、これは現実なのだ。 そう分かったものの、頭はついてこない。
 老紳士にも僕の狼狽ぶりは伝わったようで、人当たりの良い表情は崩さないまま、 次の言葉を続けた。
「驚かせてしまったようですね。申し訳ない」
 謝罪の一言で、僕は急に冷静さを取り戻した。 得体の知れない存在であることは変わらないが、とりあえず悪いものではないようだ。 それに、相手に謝らせるほどの反応を取ってしまったことで、恥ずかしいと思う気持ちの方が大きくなっていった。
 僕は起き上がり、謝った。
「いえ、そんな。こちらこそ、変に取り乱してしまって」
「仕方がありません。私の方も、少し考えが足りなかったのです」
 謙遜する相手を見ていると、老紳士が一般的な存在に見えてくるのが不思議だった。 だが、彼が謎の侵入者であることは変わらない。僕は素直に聞いてみることにした。
「……で、あなた一体何なんですか」
 老紳士は目を見開き、口を軽くすぼめるような、大げさな挙動をして、「申し訳ない、申し訳ない」 と独り言のように言うと、間を開けずに言う。それは単調そのもので、何の気負いも感じられない言葉だった。
「死神です。あなた達人間が言うところの」
 僕は当然驚いたが、うろたえた素振りを隠した。 またさっきまでのように、相手に謝られるのが嫌だったからだ。
「そうですか。それでその死神さんが僕に何の用ですか」
「いや、正確にはあなたに、ではないんですが」
「じゃあなんで、ここにいるんですか」
 死神の曖昧な物言いに腹が立ち、声を荒げてしまう。部屋の空気が張り詰め、静寂の音が聞こえた。
 死神は、困ったような、苛立つような、嘲笑うような顔を出したが、直ぐに和らげた。
「落ち着いてください。私は、単に道に迷ったのです」
「……死神が道に迷うものなのか」
「迷いますとも、迷いますとも」
 たかぶりが直った僕の声に安心したのか、死神は即答した。
「じゃあ、僕が死ぬわけではないんですね」
「当然ですよ。第一、私達は生きている人間を殺したりはしません。死んだ人間の魂を狩るのです」
 「狩る」という単語に多少、違和感があったが、何はともあれ、僕が死ぬことはないらしい。 それだけで、安堵のため息をつきたくなった。ここからどうことが進もうと、最早他人事だ。 そう考えると完全に気楽になった。
「そうですか。じゃあ、協力しますよ。道案内をすれば良い訳ですよね」
「本当ですか。いやはや、ノルマを守らなければまずいことになるので、助かります」
「で、何か手掛かりになるものはないんですか。住所とか」
「住所? 何ですか、それは」
 死神は隠しだても何もなく、ただ分からないと言ったような様子だった。
「大体の場所も分からないんですか」
「ああ、住所というのは、場所を表すものですか。それなら、問題ないですよ。 私達は感覚的に場所について理解することができますから」
「超能力みたいなものですか。……それなら、何で迷子になってるんです」
 死神はただ「分からない」と答えた。 そんな超常的存在が分からないことを僕が分かるわけがないと思ったが、 仕方がないので話を変えることにした。
「住所はもういいです。その本来なら行くはずだった、相手の顔とかはどうなんですか」
「そんなこと聞いてどうするんですか」
 あたかも僕がおかしなことを言ったとでも言いたげな死神に、また怒りが噴出しそうになる。 けれども、相手が自分の常識が通じない存在であることを考慮して、抑えた。
「相手の顔が分かれば、僕もそれが誰か分かるかもしれませんし」
「そういうことですか。それでしたら、おそらく無意味でしょうね。 そもそも、私にはあなたの顔も分かりません」
「いや、目の前で見てるじゃないですか」
「そうですね、分かりやすく言うなら、あなた動物の顔の違い、よく分からないでしょう。 それと同じようなものです。私達と人間は種族からして違いますから。何も分かりません」
「それでどうやって、魂を狩るんですか」
「それは、先ほども言いましたが、私達は魂を狩るのです。魂の違いは把握できます」
 いよいよ僕の居る意味がなくなってきた。死神は何を聞きたかったのだろうか。 ともかく、これで人間として力を貸せることはもうないだろう。
「となると、もう僕には何もできませんね」
「そうですか。ご迷惑かけまして申し訳ない」
「僕も、協力すると言ったのに何もできなく……」
 そう言っている僕に向かって、死神はステッキも振りかざしていた。 いつの間にかに柄の方に持ちかえていて、持ち手が僕の方に向かっていた。
 恐怖を覚え、首をすくめ、首を縮め、目をつぶった。が、しばらく経っても何も起きなかった。 おそるおそる目を開けると死神はまだそこに居た。ステッキは僕の首元にあり、 持ち手の部分が首の後ろに来ている形で止まっていた。
 死神はまだ怯え続ける僕をじっと見つめていた。最初から何も変わっていないたたずまいにもかかわらず、 どこかうすら寒さすら、感じられた。ところが、空気を一変させるように、突然、笑いだした。 今までの微笑むようなものとは違う、顔面の緊張を崩した、大きな笑い方だった。
「君、合格です」
 どうにも我慢できないといった調子の死神が言ったのは、いまいち意味が掴めないものだった。 どういうことかと質問しようとしようとすると、それを遮るように喋りだした。
「君は合格だ。大丈夫だ。これで君の寿命は保障された。君は後……いやいや、まだ先のことだ、よしておこう」
 哲学について教えられた幼稚園児のような顔をしているだろう僕をしり目に、 死神はいつの間にあいていたガラス戸の方に、軽々と飛んだ。 それは猫のように身軽で、同時に重さなど微塵も感じさせない、不思議な動作であった。
「では、またいつか。とは言っても、私には瞬く間のようではあるが。真に人の世とは儚いものだ」
 そこまで独り言のように言った後死神は僕の方を見た。
「少年よ、精々人生を楽しむといい」
 そう言う死神のステッキが月明かりを反射して、光ったように見えた。僕が瞬きを一度したら、死神は消えていた。



 見開かれていたはずの目を、また開けた時、白い天井が見えた。鼻につく消毒液の匂いとさまざまな機器が出す音が聞こえていた。 腕には何本かの管が通されていて、そこが病院であることはぼんやりとした意識でも、分かった。
 ぼやけていると看護師であろう人がやってきて、「分かりますか」と言うから、「はい」と反応すると、 驚き慌てて部屋から飛び出して行った。
 直ぐに白衣を着た医者らしい人まで現れて、色々なことを聞かれた。よく意味は分からない。
 そんなことをしてる内に母親がやって来て、僕に抱きついた。医者や看護師に子細は聞いたが、「どうしたの」と尋ねてみる。
「だって、あんたが急に苦しみだして、意識を失って、何日も目が覚めなくて、先生は原因が分からないって言って……」
 そこまで言って、泣き崩れてしまった母親の背中を軽くさすりながら、僕が何日か眠っていた事実を改めて思った。
「回復はしましたが、まだしばらく安静にしておいてください」
 と言って、医者と看護師は出て行き、母親も仕事があると言い出て行った。治ってしまえば冷たいものだ。
 一人になり、僕は死神のことを思い出す。死神と話していた寝苦しい夜は、決してあの通り短いものではなかった。 何がどう良くて、僕が生きているのかは分からない。 だが、ともあれ僕は生きている。
 首の後ろを触るとみみずばれのような大きな傷跡が出来ているのが、手の感触で分かった。 これは死神がつけたマーキングのようなものなのだろうか。
 全てが僕のような人間には分からない。ただ、一つだけ確かに言えることがある。
 死神は道に迷わない。


(了)  

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